「感動」に物申す!

ちょっと安易な風潮に

最近メディアや街中で「泣ける」とか「感動!」とか目にしない日はないってくらい「感動」が溢れている。

 

1952年の黒沢映画「生きる」の最後のシーン、命を削って公園を作った男の葬式で、同僚たちが涙の決意をするのだが、その後の日常は全く変わらず・・・・。

というのをよく思い出します。

 

自分自身が感動屋なんで、その残された彼らの気持ちはよくわかるのです。が、、、、

 

最近の「感動をありがとう」の安易な風潮はちょっとなんだかなぁ、と。


個人的に好きな良い作品(映画や物語)は、二時間の作品が終わった後、俳優が演じた人物の後日の姿がふと想像されるようなものがいい。その架空の人物が、ドラマチックではない日常を淡々と過ごす様を夢想してニヤニヤしたりするのが好きです。

 

悲しい演出に悲しい音楽、そこで泣くのは決して悪いことではないけども。

 

「観客を泣かせるほうが笑わせるよりも簡単だ」よく演出の人は言われます。

「泣きたい人」が多いから泣かせるのか?「簡単」だから泣かせるのか?

今の日本の中で作り手か受け手か、どちらにもその原因はあるんでしょうね。

 

大好きな山田洋二監督の小津安二郎「東京物語」へのオマージュである「東京家族」が

明日より公開されます。

試写会レポートでは「泣けた」とか多いのが気になるけれど、たぶん観に行くの。

そんでもって、たぶん「感動して泣けた」とか書くんだろう。

にんげんだもの。。。。。。。。

 

今度の映画はきっと良い映画なんだと思います。「家族」がテーマに悪者がほとんど

出てこない山田作品+世界の映画史に残る「東京物語」、音楽は久石譲。

必ず良い作品のはず。感動もするはず。

 

けど、先に書いた「生きる」で、涙の決意をした職員が、日常の業務に戻った

時の「それとこれとは、わかってるけど別!」という演出が人間を捉えてして好き。

私も弱いモノなんですもの。

 

が、テレビや雑誌で「泣ける」をあまりに打ち出されている風潮に、少しゲンナリ。。。

思わず書いてしまいました。