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詩と出逢う喜びのこと

過去の日記より。茨木のり子さんの詩が好きです。

詩と出逢う喜び

先日、茨木のり子さんという詩人を知りました。
ありがとう、典子さん

どこかで目にした言葉でしたが、言葉や人、音楽などとの
出会いは偶然ではないのだな、と改めて感じます。
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自分の感受性くらい

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
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背筋が伸びました。心が熱くなりました。
感受性、これが失われると人生は物足りないものになりますもんね!
言い訳の無い生き方をしたいものです。

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さくら

ことしも生きて
さくらを見ています
ひとは生涯に
何回ぐらいさくらをみるのかしら
ものごころつくのが十歳ぐらいなら
どんなに多くても七十回ぐらい
三十回 四十回のひともざら
なんという少なさだろう
もっともっと多く見るような気がするのは
祖先の視覚も
まぎれこみ重なりあい霞(かすみ)立つせいでしょう
あでやかとも妖しとも不気味とも
捉えかねる花のいろ
さくらふぶきの下を ふららと歩けば
一瞬
名僧のごとくにわかるのです
死こそ常態
生はいとしき蜃気楼と
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最後の二行、グッときました。
地球の時の流れの中で、生物が死の状態が永く生の状態が
実は一瞬の愛おしい瞬間なのだと気づかせてくれます。
だからこそ、僕らは一所懸命生きていかねばならないのでしょうね。
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わたしが一番きれいだったとき

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがらと崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
誰もやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆(みな)発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように ね
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この詩が発表されたとき、少なからずの批判があったそうですが
戦時中に青春時代を過ごさねばならなかった作者や時代の人々の
悲しみ、切なさ、そして今からを楽しむ!という決意を感じる作
品ですね。



全ての出会いは、一瞬早からず、一瞬遅からず、まさにその時に
出逢うものだという言葉があります。

この言葉も最初に知った時は「ふーん」てなもんでした。

けど、最近は「本当なんだな」としみじみ実感します。


自分の感受性や世界は自分で守りましょう!

Nothing’s gonna change my world.
(Beatles across the universe)