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私が勤めていた会社のことなど徒然。

2002年4月19日午前十時頃、埼玉の蕨市に住む私は午前のお仕事を休み、歯科にいた。11時半には東京神田にある東京支店に着き、PCを立ち上げメールなどの対応をしていた。12時過ぎ、SMBCから出向されていた支店長が私のデスクの横を通り過ぎながら、私に「野田くん、昼ごはん行こうか」と声をかけていただいた。周りには誰もいなかった。

 

私は「すみません、午前中歯医者に行っていたので、仕事をしなければなりませんので」とお断りさせていただいた。歯も痛かったし、治療の後でご飯も美味しくなかったろうしもっと言えば、支店長と一介の平社員の私が何を話すのか、という気持ちもゼロではなかったというのもあっただろう。

 

14時頃、本社からの連絡で部長以上は別室で「14時半にテレビ会議」との連絡を受けた。なんとなく察した。業績悪化が止まらない会社。終わるのだ、と。そして、それは現実となる。

 

遡ること3月、私は茨城で結納の日であった。当時29歳。さあ今から結婚だと胸躍らせていた時期。新居を蕨に決め、楽しかった頃。

 

その1ヶ月後の4月19日、会社が破産した。まあビビる。だって、一部上場企業で社員が私が入社当時1500人ほどいた。昭和の時代には天皇陛下が工場に御視察いただいた、戦後の日本の住宅事情を支えてきた会社だったのだ。私だけでなく奥さんもその両親も家族もびびったことだろう。

 

破産発表後、全国の支店営業所、工場などは怒涛の電話や債権者が押しかけ、上司達が懸命に対応してくれていた。

 

私はというと、数日前に契約にこぎつけた神奈川の公団現場の5500万円の契約を、協力業者のY社に引き継ぎの連絡やら申し送りやらで忙殺される。世田谷の完了案件ゼネコンのフォローもやったな。励まされたな、確か。

 

終業後、当時の東京特建部、部長以下、神田駅近くの居酒屋で今後の話をしていた。「人のいい」会社だったのだ、良くも悪くも。

 

その店にいた時や後日、ライバル企業だったJ社とN社とE社の方々から私の携帯に電話がかかってきて、「うちに来ないか?」と誘っていただけたことは、ありがたく嬉しい話であった。若かったから、使い勝手が良いのだろうけれども、あの電話は自信になった。必要とされることは勇気と自信を与えてくれるものだ。

 

その後、3ヶ月ほど東京で研修やら何やらで遊び倒し、佐賀に戻ってなんだかんだで今ガーデンデザイナー、へっぽこ経営者、非常勤講師、大学院生であり、思春期真っ盛りの息子もいる。もう、16年なんだ、という感覚。

 

当時の皆さんともSNSでも繋がって、投稿を通して、元気な様子は励みになる。その繋がりの中に当時の社長もいらっしゃる。経営の難しさや楽しさ、失敗から成功のたねを見つける喜び、成功の中にある驕り、失敗の芽。何度でも立ち上がっていかねばならない。人生は死ぬまでの暇つぶしと言うのであれば、どうせなら懸命に楽しく自由でいたい。そして人生はそんなに退屈なものでもないようだ。

 

唯一、心残りだったのは16年前の昼時に、支店長とのランチを断ったこと。あの時、銀行から出向の支店長ならば経緯はご存知だったろうから、結納したばかりの私の行く末なんかを気にして声をかけていただいたのではなかろうか、と考えたりするのだ。

 

以上、私の16年前の記憶。全ては繋がっている。無駄ではないってことを信じている。思い出すと恥ずかしくなるようなことでも、きっと意味がある。

昔は見えていなかった経営者の感覚は、今では少しだけわかるような気がする。感謝しかない。

 

 

追記:昨日の元社長のSNSには【2002年4月19日残念】とだけ発信されていた。

どんな想いでこの日を迎えられるのだろうか。

私はこの会社でいろんなことを学べたし、ガーデニングの師匠の石原さんに出会ったのもこの会社でのことだった。この会社に行かなかったら、今の私はないのです。